被爆地・長崎で"平和"を学ぶ
1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下され、一瞬で多くの尊い命が失われました。
広島に次ぐ被爆地となった長崎市には、世界平和の願いを込めてつくられた平和公園や長崎原爆資料館をはじめ、当時の被害を今に伝える原爆遺構が数多く点在しています。
なぜ長崎に原爆が落とされたのか、原爆の被害はどのようなものだったのかを学び、力強く復興した姿に触れ、改めて平和の尊さを感じる時間を過ごしてみませんか。
長崎の原爆
〈なぜ長崎に原爆が落とされたの?〉
当初、原爆投下の第一目標は九州の小倉とされていましたが、小倉上空が雲で覆われていたため第二目標の長崎に変更されました。長崎は空襲の被害をあまり受けておらず原爆の威力や効果を確かめやすかったこと、三菱造船所をはじめとする兵器工場や造船所が集まっていたことなどが、原爆投下地に選ばれた理由だと考えられています。
〈原爆の甚大な被害〉
長崎市松山町上空で炸裂した原爆は長崎に甚大な被害をもたらし、強烈な熱線と凄まじい爆風が一瞬にして美しい街と人々の命を奪いました。爆心地から1km以内の地域では家屋が原型をとどめないほど破壊され、爆発時に放出された大量の放射線により無傷の被爆者も大多数が亡くなり、放射線による被害は生き残った人々にも深刻な影響を与え、今もなお被爆者の健康を脅かし続けています。
長崎の復興
〈生きる力と復興への道〉
原爆投下により焼け野原となった長崎は、この先70年草木は生えないだろうといわれていました。
しかし約1ヶ月後には草木が芽吹き、虫たちが姿を現したのです。生きる希望を見出し復興へと歩み出した人々は、壊れた建物の木材を集めて小屋を建て、住み始めます。翌年には市営住宅も建ち始め、長崎の街は徐々に活気を取り戻していきました。
〈長崎の平和活動〉
終戦から4年後、長崎市長が「平和宣言」を発表。平和への強い願いを持った長崎市民は「平和は長崎から」を合言葉に、国際文化都市を目指した街づくりを始めます。そして「平和公園」や「国際文化会館(現在の長崎原爆資料館)」、平和公園のシンボルとなる「平和祈念像」が建てられていきました。
毎年8月9日には平和公園で長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が行われ、原爆犠牲者の冥福を祈るとともに、核兵器廃絶と恒久平和の実現が世界に向けて発信されています。
COLUMN
多くの被爆者を救済した永井隆博士
大学助教授であった医師・永井隆博士。放射線医学の研究に取り組んでいた博士は、原爆が投下された日、自身も重傷を負いながら献身的に被爆者の救護にあたりました。白血病の悪化で床に伏した後も自身を実験台に原爆症の研究と執筆活動を行い、平和や愛をテーマにした数々の小説や随筆を発表しています。
永井博士が過ごした2畳一間の住居「如己堂(にょこどう)」や「永井隆記念館」は、博士が発信し続けたメッセージと平和について考えられるスポットです。
平和公園
原子爆弾の爆心地とその北側の小高い丘にある「平和公園」。戦争を二度と繰り返さないという誓いと世界平和への願いを込めてつくられました。
公園内は長崎の平和のシンボル「平和祈念像」や世界恒久平和と核兵器廃絶の願いを込めて建設された「平和の泉」がある「願いのゾーン」、長崎原爆資料館がある「学びのゾーン」などに分かれており、国内外から多くの人々が訪れます。
ゆっくりとした時間が流れるなか、平和の尊さを感じられるスポットです。
COLUMN
平和公園から未来へつなぐ祈念イベント
平和公園では、原爆の犠牲者を悼み世界平和を願う催しが開催されています。毎年8月9日に行われる「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」では、平和祈念像前で原爆死没者の霊を慰め世界平和を祈念。その前日に行われる「平和のともしび」では、長崎市民が手作りのキャンドルに平和への願いを書き入れ明かりを灯し、原爆死没者を慰霊します。
長崎原爆資料館
長崎原爆資料館は、原子爆弾による被害の状況や長崎の復興の様子、核兵器のない恒久平和を世界中の人々に伝えるために設立されました。館内の展示に「1945年8月9日」「原爆による被害」「核兵器のない世界」といったテーマごとのストーリーを持たせ、分かりやすく当時の様子を伝えるとともに平和への願いを発信しています。
常設展示室には、実際に被爆した建物の階段や給水タンク、再現された浦上天主堂の側壁などを展示。当時の様子をリアルに感じられる展示物の数々に、原爆や戦争の恐ろしさ、平和のありがたさを再認識させられます。
COLUMN
静かな空間で平和を考える 「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」
原爆資料館に隣接しているこの施設は、原爆投下により亡くなられたすべての方々への追悼と平和祈念を行う場所です。入口には原爆死没者の方々が求めた「水」をたたえる水盤があり、夜になると灯る約7万の追悼の明かりが幻想的な雰囲気を醸し出します。地下2階の追悼空間には原爆死没者の氏名を記載した名簿が納められており、光が注がれる中、静かに平和と向き合う祈りの空間となっています。
被爆遺構を巡る
長崎の街には爆撃によって被害を受けた「被爆遺構」が点在しています。当時の状況がわかる貴重な場所に足を運んでみてはいかがでしょうか。
-
原子爆弾落下中心地
原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで爆発しました。黒御影石の原子爆弾落下中心地碑が、落下中心の標柱として爆心地公園に静かに建っています。
-
浦上天主堂遺壁
爆心地から北東約500mの小高い丘にあった浦上天主堂。原爆によって破壊され、わずかな堂壁を残すのみとなりました。爆心地公園に移築された側壁の一部には、爆風による石柱のズレをみることができます。
-
被爆当時の地層
爆心地公園には被爆当時の地層が残されています。原爆によって壊された家の瓦やレンガ、熱線で焼けたガラスなどが大量に埋没しており、原爆被害の大きさを伺えます。
-
被爆クスノキ(山王神社)
山王神社の境内入口に根を下ろす大クス。被爆し、一時は枯死寸前になりました。しかし次第に樹勢を盛り返し、その様子は長崎復興のシンボルとして多くの人々を勇気づけました。
-
一本柱鳥居(山王神社)
爆心地の南東約800mにある山王神社。その参道には元々4つの鳥居がありましたが、被爆し二の鳥居の片側の柱のみ残りました。住宅街にひっそりと佇む一本柱鳥居は、原爆の悲惨さを現代に伝えています。
-
浦上教会天主堂(浦上天主堂旧鐘楼・原爆遺物展示室)
原爆によりほぼ倒壊した浦上教会天主堂。北側に落下した鐘楼は、滑落した場所に今も残されています。原爆遺物展示室には被爆で破損した十字架上のキリストなどが展示されています。
-
山里小学校
爆心地から北へ約700mの場所に位置する山里小学校には18ヶ所の防空壕が掘られており、大勢のケガ人がここへ逃げ込み亡くなりました。現在も3ヶ所の防空壕が残されています。
-
城山小学校(城山小学校平和祈念館)
被爆後も教室として使用してされていた城山小学校の被爆校舎。現在は被爆時の遺物や当時の校舎の模型などを展示する平和祈念館として一般開放されています。
-
長崎県防空本部跡(立山防空壕)
太平洋戦争中に長崎県防空本部が置かれた場所。ここから原爆の被害情報が国の中央に送られ、市外・県外への救援救護の応援要請が行われました。施設と通路の一部を見学することができます。
COLUMN
当時の救護所の様子を伝える「救護所メモリアル」
長崎市立図書館内にある施設。元々この場所にあった国民学校は、原爆の倒壊を免れ怪我を負った人たちの救護所となりました。当時の救護所の様子が再現されているほか、実際に使用された医療器具などが展示され、当時の惨状と平和の大切さを今に伝えています。