江戸時代にタイムスリップ!出島の歴史と現代の楽しみ方
鎖国時代の218年間、日本で唯一西ヨーロッパに開かれ、貿易の窓口だった出島。
小さな人工島でありながら大きな役割を果たした出島には、どのような歴史や暮らしがあったのでしょうか。当時の様子から現在の出島の楽しみ方まで、魅力をたっぷりご紹介します。
出島の歴史
〈出島のはじまり ~ポルトガル人収容~〉
16世紀、鉄砲やキリスト教が日本に伝えられると、各地の大名は貿易や信仰のためにポルトガル船の入港を求めるようになり、長崎港が開港しました。その後、長崎はポルトガル貿易の拠点として急速に発展していきます。
しかしキリスト教は次第に取り締まりの対象となっていき、ついに江戸幕府がキリスト教禁止令を発令。キリシタンへの迫害は厳しさを増していき、1636年、幕府はポルトガル人によるキリスト教の布教防止と貿易の監視を目的に「出島」を築き、ポルトガル人を収容しました。
〈出島の繁栄 ~オランダ貿易~〉
出島に居住することになったポルトガル人ですが、翌年に起きた島原と天草のキリシタン農民による一揆により、幕府との関係が悪化。ポルトガル人の日本渡航は禁止され、わずか3年で出島は無人島となってしまいます。
一方オランダは、島原の乱で原城を砲撃するなど幕府への忠誠心を示すことで信頼を獲得。1641年に平戸にあったオランダ商館が出島に移設されると、1859年までの218年間、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた窓として、出島を通じた貿易が行われ、長崎は大きな繁栄をみせます。17世紀、日本とオランダの貿易は最も活発に行われ、日本の近代化に大きな役割を果たすこととなりました。
〈出島のおわり ~オランダ商館閉鎖と開国~〉
1858年、幕府は日米修好通商条約に調印し、実質的な開国が行われました。同年、日蘭修好通商条約が締結されると日本人も出島の出入りが可能になり、オランダ商館は領事館を兼ねるようになります。さらにその翌年からネーデルラント(現在のオランダ)貿易会社が貿易を手掛けるようになると、オランダ商館はついに閉鎖されました。
また、日米修好通商条約により横浜・神戸・長崎・函館・新潟が開港。貿易は日本各地へ拡大していきます。長崎の貿易の中心は外国人居留地となった南山手地区へと移り、長崎は国際的な貿易都市として発展。日本の鎖国時代の終わりとともに、出島もその役割を終えました。
COLUMN
出島はなぜ扇形?
出島の特徴はなんといってもその「扇形」。当時の出島に関する設計図のような資料は残っていないため、なぜ扇形という特殊な形にしたのかは不明です。理由は諸説ありますが、よく言われているのが以下の3つの説となります。
【将軍の扇説】
当時の将軍・徳川家光が「長崎に作る島の形はいかがいたしましょうか?」と尋ねられ、自分の扇を出して「これを見本にしなさい」と言ったから。
【地形・地質説】
中島川の河口に運ばれた土砂が堆積して弧状の砂州が形成されていて、それを土台として埋め立てたから。
【波よけ説】
海側の岸壁を弧状にすることにより、波浪の影響を少なくしようとしたから。
出島の貿易
〈出島の貿易ではどんなものを扱っていたの?〉
オランダ貿易では、生糸を中心にインド産の木綿製品や羅紗(らしゃ)など、ヨーロッパ原産の毛織物類が輸入されました。江戸中期以降は砂糖が主な輸入品となり、その他、ビードロやギヤマンと呼ばれたガラス製品、ヨーロッパで焼かれた陶器、薬種、染料として使用する蘇木(そぼく)、鮫皮、錫(すず)、鉛など、さまざまなものが輸入されました。
日本からの輸出品としては、江戸初期の主要品は銀でしたが、海外への大量の銀流出を幕府が問題視し、その後は金を輸出。17世紀後半からは銅の輸出を進め、以降、幕末まで銅が輸出品の主力となりました。このほか、樟脳(しょうのう)、陶磁器、漆製品、しょうゆや酒など樽物(たるもの)も輸出されました。
〈砂糖の伝来が日本の食文化を変えた!〉
日本に初めて砂糖が伝えられたのは奈良時代ですが、当時の輸入量はごくわずか。とても貴重なもので、薬などに使われていました。オランダ貿易で砂糖の輸入量が一気に上がると、長崎の人々は「食」に砂糖を使うようになります。カステラや金平糖、丸ボーロなど砂糖を使用したお菓子が長崎の地で誕生し、日本のお菓子の発展に大きな影響を与えました。
砂糖で甘みをつけた料理は、当時も大変高価なもの。客人へのおもてなし料理として振る舞われたことから、長崎の伝統料理は少し甘いんです!
〈珍しい動物がやってきた!〉
西ヨーロッパに唯一開かれた窓であった出島には、ラクダやゾウ、トラなど、海外からさまざまな動物が運ばれてきました。その多くは当時日本にはいない珍しい動物ばかり。動物たちは出島から各地へと渡り、初めて見る動物に日本人は大フィーバー!江戸ではその姿を描いた浮世絵やすごろく、おもちゃなどが町に広がったといいます。
また、江戸中期にはたくさんの外国鳥が輸入され、特に色鮮やかなオウムやインコやことばを話す九官鳥は大人気となりました。
出島の暮らし
〈どのような人々がいた?〉
出島のオランダ商館には、最高責任者の商館長(カピタン)、商館長次席(ヘトル)や荷役役、決算役、書記役、医師、調理師など、多い時で15名ほどのオランダ人と、下働きの職人、オランダ人の身の回りの世話をする東南アジアの人たちが居住していました。
また、長崎奉行の管理下であった出島には多くの日本人も勤務していました。「乙名(おとな)」と呼ばれる責任者、通訳として働く阿蘭陀通詞、買い物を代行するコンプラ仲間、料理人などさまざまな役職の日本人が100人以上働いていたようです。
オランダ人と最も関係が深かった「阿蘭陀通詞」は、商館員らが嗜んでいたコーヒーを分けてもらったり、正月の宴会に招かれたりと、貴重な異国体験もできたとか!
〈出島の外へ自由に出られなかったオランダ人の数少ない楽しみは?〉
彼らの一番の気分転換は「江戸参府」でしょう。将軍に拝礼するための江戸旅行は、出島以外の日本の様子を間近に見られる数少ない機会でした。長崎の風物詩、諏訪神社の「くんち」を見物することもあったようです。
また、気晴らしに「玉突き遊び(ビリヤード)」や「バドミントン」で遊ぶことも多かったとか。出島を見学に来た日本人にオランダ料理を振舞ったあと、ビリヤードを見せるのが彼らの接待の通例にもなっていました。
他には、「お酒」も楽しみだったようです。オランダから船便でビールを持ち込んでいましたが、来航が途絶えた際、出島内でビールを醸造したという記録が残っています。ビールのほかにもジェネバーと呼ばれるジンが大量に運び込まれていたようで、出島の発掘でジンボトルの破片が見つかっています。
これらの娯楽や飲み物は出島から全国へ伝わり、広がっていきました。
〈出島ではどんなものを食べていたの?〉
オランダ人の食生活は洋食でしたが、当時の日本で牛肉を調達することは困難でした。そこで、ごちそうの牛肉にありつくために、バタビア(現在のジャカルタ)から輸送した牛を出島内で飼育したといいます。
ジャガイモ等の野菜も栽培し、それらを使って「オランダ正月」には豪華な食事を楽しみました。その献立は、「鶏かまぼこが入ったスープ、鴨の丸焼き、ソーセージ、野菜のボートル(バター)煮、デザートに丸カステラなど。葡萄酒やブランデー他、日本酒も用意され、食後にはコーヒーも出たそうです。
COLUMN
長崎の「和華蘭文化」はこの場所から!
17世紀前半から中国との貿易を独占的に行っていた長崎港。来航した唐人たちは、長崎市中に散宿していましたが、密貿易が増加したため、幕府は1689年、出島のように唐人達を収容する唐人屋敷を建設しました。
鎖国期における唯一の海外貿易港であった長崎において、唐人屋敷は出島とともに海外交流の窓口として大きな役割を果たしました。それぞれの文化は長崎の生活に深く浸透していき、出島のオランダ、唐人屋敷の中国、そして日本の文化が混ざり合った、長崎独自の「和華蘭文化」が生まれたのです。
「長崎くんち」や「卓袱料理」をはじめ、長崎には和華蘭文化が表現されているものが数多くあります。
現在の出島「出島和蘭商館跡」
役目を終えた出島は、周囲の埋め立てが進み、一度姿を消してしまいます。その後、1951年頃から長崎市が復元整備事業を行い、「出島和蘭商館跡」として建物や景観が現代に蘇りました。
現在の出島には当時の生活を再現した部屋や資料などが展示されていて、まるで江戸時代の出島にタイムスリップしたような雰囲気を味わうことができます。
19世紀はじめの出島の完全復元を目指し、長崎市の復元整備事業は今も続いています。
出島和蘭商館跡内の人気スポット
歴史かつ異国情緒を感じる建物はなんともフォトジェニック!おすすめの見どころを紹介します。
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カピタン部屋
オランダ商館長(カピタン)の住居。事務所としても使用された、出島内で最も大きく中心的な建物です。華やかな居住空間が再現されていて、大広間の祝宴風景や客間など当時の雰囲気を味わえます。
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ヘトル部屋
オランダ商館の商館長次席(ヘトル)が暮らしていた建物。漆喰の白壁にブルーの窓枠が印象的です。1階は出島グッズや長崎のお土産などが並ぶミュージアムショップになっています。
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筆者蘭人部屋
オランダ人の書記の住居。現在は資料館となっていて、出島が貿易や文化交流を通して世界と日本をつなぐ役割だったことがわかりやすく展示されています。
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旧長崎内外クラブ
明治に入ってから、長崎に在留する外国人と日本人の親交の場として建てられた英国式明治洋風建築。広々としたバルコニーと色使いが特徴的です。
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旧出島神学校
1878年建造、現存する日本最古のキリスト教(プロテスタント)の神学校。片側に美しい尖塔をもつ、趣ある木造建築です。1階は料金所や売店・休憩室、2階は資料館になっています。
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ミニ出島
出島の15分の1サイズの模型。シーボルトに認められた出島絵師・川原慶賀が1820年頃に描いたとされる「長崎出島の図」を参考に再現されました。出島の全体像がよくわかります。
出島表門橋
出島和蘭商館跡にかかる出島表門橋。出島の中央に約130年ぶりに架かったこの橋は、江戸町と出島の"架け橋"となった出島のシンボルです。
鎖国時代、この場所に架かっていた石橋「旧出島橋」は、当時、オランダ人や日本人、ゾウやラクダなども行き交う重要な橋でしたが、1888年の中島川変流工事で撤去されてしまいました。
時を経て、長崎市が主体となる出島復元整備事業にて橋の復元計画が進められ、2017年、当時と同じように出島の正面から水面を渡って出島へ出入りできる「出島表門橋」が完成しました。
埋め立てられ、地続きとなった出島が「島」であったことをしっかり実感できるこのスポット。かつての出島を彷彿とさせる風景は圧巻です!この橋を渡りながら当時に思いを馳せ、表門をくぐった先に広がる出島をぜひお楽しみください。
こんな楽しみ方も!出島の体験スポット
見学だけではもの足りない!出島でできる体験スポットをご紹介。とことん出島を満喫しましょう!
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着物レンタル(ヘトル2階:出島ホッペン)
着物姿で長崎風情を満喫!「出島ホッペン」では100着以上の着物からお似合いの一着を選んで、コディネート!草履や髪飾りもレンタルに含まれています。当日予約もOK!出島内はもちろん、長崎の街を散歩できるので思い出作りにぴったりです。
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レストラン(旧長崎内外クラブ:長崎内外倶楽部レストラン)
古風な西洋の雰囲気が漂う店内。タイムスリップしたかのような空間で長崎ならではの食を味わえます。お食事やティータイムなど、上品で心地よいひとときが過ごせます。
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歴史スタッフによる出島ガイドツアー(総合案内所)
侍に扮した歴史スタッフが丁寧に出島内を案内してくれるガイドツアー。建物や出島の歴史についてわかりやすく解説してくれます。出島をより深く知るチャンス!1日4回開催、参加料は無料です。
COLUMN
出島と一緒に訪れよう!
出島から徒歩約3分の場所にある複合商業施設「出島ワーフ」。ベイサイドにおしゃれなレストランやカフェが並び、海風を感じながらテラス席で美味しい料理を堪能できます。ここから見る長崎港の夕暮れや稲佐山の夜景は格別!
出島ワーフ横にあるのは「長崎水辺の森公園」。芝生の広場の前に海が広がる憩いの場として人気の公園です。園内には運河が流れ、運河沿いには遊歩道が。ロマンティックな雰囲気のなか散策を楽しめます。この公園の一角には「長崎県美術館」もあり、絵画はもちろん、絶景を楽しめる屋上庭園や開放的なカフェも魅力です。
出島と併せて、潮風が心地いいベイエリアの憩いスポットを心ゆくまでお楽しみください。