ながさきしかめやましゃちゅうきねんかん 長崎市亀山社中記念館
坂本龍馬が結成した日本初カンパニー「亀山社中」跡に建つ記念館
亀山社中は、1865年薩摩藩や長崎の豪商・小曽根家の援助を受けて、坂本龍馬とその同志20数人により結成された日本初の商社兼私設海軍です。貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中は、徳川幕府の倒幕を目的とした活動を行うとともに、グラバー商会と銃器の取引を開始し、藩に武器を卸す商業活動や物資の輸送や航海訓練なども行いました。
また、険悪だった薩摩藩と長州藩の関係回復の仲介をし、薩長同盟の締結に大きな役割を果たしたと言われています。
当時活動の拠点として借りていた民家が、もともと亀山焼の職人の住居として使用されていたため、その地名の亀山と、仲間を意味する社中を合わせて亀山社中と呼ばれました。老朽化していた遺構を当時に近い形で復元し、2009年から長崎市亀山社中記念館として一般に公開しています。
記念館は内部は、10畳・8畳・3畳の部屋と土間に分かれており、隠し部屋と思われる中二階は、はしごを上って中を見学することができます。
また、龍馬のブーツのレプリカやピストル、書簡の写し、亀山社中の志士達の写真などゆかりの品々が展示されており、全国から龍馬ファンが訪れる人気のスポットです。名誉館長は龍馬の大ファンである俳優の武田鉄矢さんが務めています。
近くには、記念撮影スポットとして人気の龍馬のぶーつ像と、ボランティア団体亀山社中ば活かす会が運営する亀山社中資料展示場(土日祝のみ営業)もあります。
■亀山社中の歴史
坂本龍馬(1835年~1867年)は、土佐国高知城下(現在の高知県高知市)に生まれ、江戸で剣術や砲術の修行の後、帰国して土佐勤王党に加盟しました。その後土佐を脱藩して幕臣・勝海舟の門人となり、勝塾や神戸海軍操練所に学びました。元治元年(1864年)以降操練所が閉鎖されたため、脱藩者の龍馬と同志たちは薩摩藩に保護され、鹿児島を経由して長崎にやってきます。そして慶応元年(1865年)夏頃、薩摩藩や長崎商人・小曾根家の援助を受け、日本最初の商社と言われる亀山社中を結成しました。
亀山社中の最大の業績は、慶応2年(1866年)に長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)の購入・運搬に成功したことです。そのことが慶応2年(1866年)1月の薩長盟約締結へとつながり、新しい時代をひらくための足がかりとなったのです。
■亀山焼窯との関係
亀山焼は文化4年(1807年)から長崎・八幡町の大神甚五平(おおがみごんべい)らにより、伊良林郷垣根山で焼かれはじめました。初めはオランダ船向けの水がめなどを焼いていましたが、後に中国産呉須を用いた格調高い白磁染付を製作するようになりました。また、田能村竹田(たのむらちくでん)、木下逸雲(きのしたいつねん)ら文人による絵付作品でも知られています。慶応元年(1865年)頃に廃窯となり、龍馬たちはその亀山焼関連の家屋を借り受けて亀山社中をおこしたとされています。
■建物について
この建物は坂本龍馬ゆかりの亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を所有されている方のご厚意により、長崎市が当時の姿により近い形で整備し、平成21年8月1日から公開しているものです。亀山社中記念館のある場所は、幕末に亀山焼の再興を図った一族が大正9年まで所有していたと登記簿に記されています。また、幕末の長崎地図に描かれた亀山一帯の建物は当建物らしいものを含めわずかであり、亀山社中が寄寓した建物であった可能性は高いと推測されます。
母屋は10畳・8畳・3畳の部屋と土間に分かれており、龍馬がもたれかかって座ったと伝えられる10畳座敷の柱など、黒褐色の建具は幕末の家屋の雰囲気を忠実に再現しています。その先の縁側からは長崎の街と港が一望できました。一方、土間の北側には玄関があり、かつてはそこから出入りをしていたようです。この土間はガラス張りの床越しに確認することができます。また、土間と3畳の部屋の上部には中二階がありました。有事の際には大人数が潜むのには十分な広さです。現在は失われていますが、母屋の北側には土蔵と馬小屋もあったとされています。
■海援隊
海援隊は龍馬率いる亀山社中が発展したものです。慶応3年(1867年)、土佐藩重役の後藤象二郎や福岡考悌、薩摩藩の西郷隆盛らの協力により、龍馬の脱藩罪が解かれ、海援隊(隊長:坂本龍馬こと才谷梅太郎)が設立されます。海援隊の名前は、海から土佐藩を援護するという意味から来ていると言われています。
海援隊の基本理念などは、隊則である海援隊約規によく表れています。入隊資格は「およそかって本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志ある者、この隊に入る」とあるように、海外開拓の志を持った者であれば入隊が可能でした。
隊の目的は「運輸、射利、開拓、投機、本藩の応援をなすを主とす」とあるように、運輸、射利、開拓、投資、そして土佐藩の応援です。特に射利(利益追求)というのは、海援隊が現在の会社のように利益を求め経営を行うという、当時としては画期的なものでした。
また、隊長の権限、隊士の互助のほかに、修行科目)(政法・火法・航海・汽機・語学など)や隊の自活運営もうたわれており、政治・商事活動を行いながら、様々な勉強をするという集団でもありました。
海援隊は慶応4年(1868年)4月に解散しました。活動の期間は約1年と短いものでしたが、維新後に活躍した陸奥宗光(陽之助、外務大臣)、中島信行(作太郎、衆議院議長)、石田英吉(長崎県令)などの多くの人材を生み出しています。また、長崎土佐商会主任として海援隊との交渉にあたった岩崎弥太郎も、維新後三菱をおこし日本経済の発展に寄与したことで知られています。
■坂本龍馬ゆかりの施設
龍馬がその夢の実現にむけて設立した亀山社中を中心に、風頭山から寺町までゆかりの施設を訪ねながら、龍馬が闊歩した街並みをたどることができます。
・長崎港を一望できる風頭山
・龍馬をはじめとする亀山社中メンバーを撮影したと言われる上野彦馬の墓
・坂本龍馬の銅像と司馬遼太郎文学碑
・亀山焼窯跡
・若宮稲荷神社と坂本龍馬神社
・亀山社中資料展示場
・龍馬のぶーつ像
・亀山社中記念館
・龍馬通り
■姉妹友好館
平成23年2月5日に亀山社中記念館は、坂本龍馬生誕の地である高知市の「高知市立龍馬の生まれたまち記念館」と姉妹友好館締結をいたしました。姉妹友好館の相互交流を行い、坂本龍馬の魅力を全国に発信していきます。
高知市立龍馬の生まれたまち記念館
https://ryoma-hometown.com
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基本情報
住所 | 〒850-0802 長崎県長崎市伊良林2-7-24 |
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電話番号 | 095-823-3400 |
FAX番号 | 095-823-3400 |
営業時間 | 9:00~17:00(最終入館は16:45) |
休日 | 無休 |
料金 | 大人310円 高校生200円 小・中学生150円 ※団体料金(15名以上)大人250円 高校生160円 小・中学生120円 ※各種減免料金は下記を確認ください |
交通アクセス | 長崎駅前方面から路面電車 3番系統「蛍茶屋」行き「新大工町」下車 徒歩約15分上り 長崎駅前方面から長崎バス「風頭山」行き「風頭山」下車 徒歩約15分下り ※当館は山手に位置しているので熱中症には特に気をつけてお越しください 緊急車両が横付けできる場所ではございません |
駐車場 | なし ただし、土、日、祝日は瓊浦高等学校様のご厚意により学校の駐車場をご利用できます(学校行事優先) ※2024/12/28~2025/1/1はご利用できる予定です |
リンクURL | 入館料の減免について 高知市立龍馬の生まれたまち記念館 高知県立坂本龍馬記念館 |