
2025年は被爆80年、長崎で平和を祈念する
2025年、長崎は被爆80年を迎えます。第二次世界大戦以前から日常的に「祈り」がある長崎では、原爆犠牲者の冥福を祈り、平和を祈り続けてきました。
市内には、原爆投下の爪痕が残る遺構や平和公園、長崎原爆資料館など平和を象徴する施設が数多くあります。
また、祈りの地「長崎」のキリシタン文化施設や、戦後の日本経済の復興の象徴である産業革命遺産、古くから海外文化の窓口として発展してきた長崎ならではの文化など、いまや長崎は日本を代表する観光地として多くの人を魅了しています。
日本有数の夜景もぜひお楽しみください。
今のNAGASAKIはこんな素敵な街に発展しています!
(1)日本有数の夜景がきらめくキラキラCity
2024年に北九州・横浜とともに「日本新三大夜景」に選ばれた人気のフォトジェニックスポットで、2021年の「世界夜景サミット」においてはモナコ、上海と共に「世界新三大夜景」に選ばれました。
夜景だけでなく、晴れた日の昼間には長崎市街地はもちろんのこと、雲仙・天草・五島列島まで眺めることができます。
山頂までのロープウェイでは、ガラス張りのゴンドラから360度ワイドビューの空中散歩を楽しめます。
日没後のブルーモーメントから段階的に暗くなり、輝きを増していく時間帯もおすすめです。
(2)長崎新地中華街
長崎駅から路面電車でわずか10分という場所にある横浜・神戸と並ぶ日本三大中華街のひとつ、長崎新地中華街。
食事だけではなく、中国のお菓子や雑貨などのお店も揃っています。
長崎は日本・中国・オランダの文化が楽しめるエリアで、日本の街中にある中華街をお楽しみください。
(3)グラバー園
日本が約700年続いたサムライの時代から大きく近代化した19世紀中頃に長崎で活躍したスコットランド人の商人トーマス・グラバーの邸宅(2015年世界文化遺産に認定)があります。
彼は当時の政府と戦った地域へ武器の供給や船の販売を通じて支援し、日本の大きな転換期に多大な影響を及ぼしました。
グラバー園は長崎港を一望できる絶好のロケーションで、長崎を代表する観光地にもなっています。
いまのNAGASAKIではこんな取組を実施しています
(1)平和を伝える外国人向けガイドの育成
せっかく長崎を訪れた方へ、被爆地としての思いや二度と繰り返してはならない固い決意を伝えるため、外国人向けのガイドを養成しています。
戦争経験者が高齢化するいま、戦争経験者から聞いた話を自分の言葉に置き換えて語る若いメンバーが育っています。
(2)約70年に及ぶ平和活動が評価され、被爆者の立場から核兵器の廃絶などを訴えてきた日本被団協が2024年ノーベル平和賞に輝き、ノルウェーの首都オスロで行われた授賞式に代表者が参加。
核兵器は極めて非人道的な兵器であり、すみやかに廃絶しなければならないということを訴えました。
長崎市ではいまも街中で被爆の遺構を見ることができます
下記は一本柱で立っている鳥居です。もともと4つありましたが被爆により強烈な爆風とともに倒壊し、現在も当時のままの姿で立っているのは右半分の柱だけを残した一本のみです。
吹き飛ばされた左半分はすぐ近くの道路に保存されており、住宅街にひっそりと街を見下ろす位置で原爆の悲惨さを現代に語り継いでいます。
また、アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は上空約500mで炸裂しました。落下中心地標柱として黒御影石の碑が立てられています。
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一本柱鳥居(山王神社)
日本二十六聖人殉教地へと続く旧浦上街道沿いにある山王神社は、爆心地から南東約800mの場所の高台にあり、1945(昭和20)年8月の原爆投下により被害を受けました。社殿は跡形もなく崩れましたが、1950(昭和25)年に再建され現在に至ります。
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山王神社の参道には、一本柱鳥居と呼ばれ親しまれている鳥居があります。もともと鳥居は4つありましたが被爆によりその2つが強烈な爆風とともに倒壊しました。残った鳥居のうち1つは戦後、交通事故により撤去されたため、現在も当時のままの姿で立っているのは右半分の柱だけを残した一本柱鳥居のみとなりました。被爆時に吹き飛ばされた左半分はすぐ近くの道路に保存されており見ることができます。住宅街にひっそりと街を見下ろす位置に立っており、原爆の悲惨さを現代に語り継いでいます。 -
平和公園(原爆落下中心地)
1945年8月9日11時02分。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂し、一瞬のうちに多くの尊い人命を奪いました。
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現在、その地には落下中心地標柱として黒御影石の碑が立てられています。
園内には被爆当時の地層も残されており、そこには原爆によって壊された家の瓦やレンガのほか、約3,000度の熱で焼け溶けたガラスなどが今も大量に埋没しています。
長い信仰のルーツが長崎にはあります
いまから約400年前、日本国内ではキリスト教の信仰が厳しく禁止されました。信者は見つかると拷問をうけ、棄教しないものは流刑に処されるか大変な辛苦を味わう方法で処刑されるなど、信仰を続けることは命がけの行為でした。
現在の長崎駅からわずか5分程度の場所にフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘があります。キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから信者達がこの地を処刑の場に願い出たと言われており、二十六聖人の殉教以降も多くの人々がこの地で処刑されました。
そんな状況の中でも宣教師不在で人々は250年以上もの間、信仰を続け、1865年、宣教師 ベルナール・プティジャン神父が長崎に建設された大浦天主堂で祈っているときに地元の人々が彼を訪ね、自らがキリシタンであることを告白しました。
彼らは隠れキリシタンの子孫で、厳しい弾圧の中でも密かに信仰を守り続けていました。その舞台となった大浦天主堂は日本最古の現存する教会堂として世界文化遺産に登録され、信仰の奇跡を象徴する歴史的な場所となっています。
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日本二十六聖人殉教地(西坂公園)
西坂公園はJR長崎駅東側、NHK長崎放送局横の坂道を上り徒歩約6分の小高い丘に位置します。
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豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘です。キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから信者達がこの地を処刑の場に願い出たと言われており、二十六聖人の殉教以降も多くの人々がこの地で処刑されました。 -
大浦天主堂
幕末の開国後に長崎居留地に建設され、国内現存最古の教会として知られています。南山手グラバー通りに面して建ち、美しいステンドグラスが施されたゴシック様式の教会です。
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1864年末に竣工した翌年3月、浦上の潜伏キリシタンが訪れ信仰を告白したことにより、世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台となりました。建立直前に殉教した日本二十六聖人に捧げられた教会であり、天主堂の正面は殉教地である西坂に向けて建てられています。
祈りのNAGASAKI
被爆の惨禍を乗り越え、長崎では、被爆者や市民が核兵器のない世界の恒久平和を祈っております。
原爆が投下された8月9日には「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が挙行され、原爆犠牲者の霊を慰め、世界に向け平和宣言を発信しています。
ほかにも、宗教を超え合同で実施する「長崎原爆殉難者慰霊祭」、平和への願いや絵を書き入れたキャンドルに灯をともす「平和の灯」など、国や宗教、世代を超えて、核兵器による惨禍が繰り返さることがないよう、平和を願う様々な活動が行われています。
浦上天主堂のアンジェラスの鐘 - 戦争の悲劇と平和への祈りを伝える
浦上天主堂は、第二次世界大戦の中で日本最大のカトリック教会でしたが、1945年8月9日、長崎に投下された原子爆弾によって壊滅的な被害を受けました。
信徒が日々祈りを捧げていたこの場所も一瞬で瓦礫と化してしまい、多くの尊い命が失われ、この時、浦上天主堂にあった左右二つの鐘も同時に破壊されてしまいました。
戦後、瓦礫の中に埋もれていた鐘が発掘され、その年のクリスマスに鐘が鳴らされました。鳴ったとき、戦争の悲劇を乗り越えた希望と平和の象徴として、長崎の町に響き渡りました。
被爆の傷が残るこの鐘は、復興の意味を持つ遺物となり、戦後に向けた「平和への祈り」を象徴するシンボルとなっていきました。
発掘された浦上天主堂の鐘のひとつは現在でも天主堂で鳴らされ、壊れたままのもう一つの鐘は教会で大切に保存されています。
この鐘の音は、地元住民だけでなく、訪れるすべての人々に平和への誓いを思い起こさせます。
浦上天主堂のアンジェラスの鐘は、「平和の鐘」としての役割を担い、その音色には戦争で命を落とした人々への追悼と、同じ過ちを繰り返さないという決意が込められています。
戦争を忘れない象徴的な存在であり、今後も素敵な音色を聞かせてくれることでしょう。
今後の長崎への来訪の意義
いまやNAGASAKIは日本を代表する観光地として多くの人を魅了しています。しかしながら、二度と繰り返してはいけない原爆投下の爪痕や史跡が多数あることも来訪の意義が深い街です。
下記のように数多くの平和を象徴する施設があり、重ねて長崎が祈りの地になったキリシタン文化施設も数多くあります。
合わせて日本経済の復興の象徴である産業革命遺産や潜伏キリシタン遺産などもあり、平和、産業革命、潜伏キリシタンなど様々なことが学べる観光地です。
■平和系施設
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平和公園(平和祈念像・平和の泉)
原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界恒久平和への願いを込めてつくられました。
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長崎市民の平和への願いを象徴する平和祈念像。(高さ:9.7m 重さ:30t 材質:青銅 制作者:北村西望氏) -
長崎原爆資料館
1945年8月9日 午前11時2分。
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広島原爆投下から3日後、長崎市内の浦上地域上空で原子爆弾が炸裂し、付近は一瞬のうちに廃墟と化し約15万人の尊い命が奪われました。
この資料館では被爆の惨状をはじめ原爆が投下されるに至った経過や核兵器開発の歴史などを紹介し、被爆から現在までの長崎の復興の様子をストーリー性のある展示を交えながら、核兵器のない世界の実現に向けて平和を発信しています。 -
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館は、原子爆弾の投下により亡くなられたすべての方々への追悼と平和祈念を行う場所です。
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館内には死没者の氏名を記載した名簿が納められた追悼空間、原爆被爆に関する手記や関連図書を閲覧できる遺影・手記閲覧室、交流ラウンジなどがあります。 -
浦上教会(浦上天主堂)
長崎市のキリシタンの聖地のひとつ浦上地区にあり、キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た信徒達によって建設が計画された浦上教会(浦上天主堂)。資金難の苦労を乗り越え1914年に東洋一を誇るレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式があげられました。正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘が備えられましたが、そのわずか20年後の1945年、原爆により浦上教会は無惨にも少しの堂壁を残し壊滅、アンジェラスの鐘も鐘楼もろとも崩れ落ちました。
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如己堂
永井隆記念館に隣接する如己堂は、永井隆博士の病室兼書斎です。
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原爆で無一文となった浦上の人々やカトリック信者仲間達の厚意によって、博士のための新しい住まいとして建てられた2畳の建物です。博士はこの建物を“己の如く隣人を愛せよ”という意味から“如己堂(にょこどう)”と名付けここで晩年を過ごしました。
■NAGASAKIの祈りの源になったキリシタン文化施設
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大浦天主堂
幕末の開国後に長崎居留地に建設され、国内現存最古の教会として知られています。南山手グラバー通りに面して建ち、美しいステンドグラスが施されたゴシック様式の教会です。
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1864年末に竣工した翌年3月、浦上の潜伏キリシタンが訪れ信仰を告白したことにより、世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台となりました。 -
出島
徳川幕府の命により築造された人工の島「出島」。
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1636年に完成し約200年もの間、わが国で唯一西欧に開かれた窓として日本の近代化に大きな役割を果たしてきました。明治期に役割を終えた出島の周囲は埋め立てられ海に浮かぶ扇形の原形は姿を消しましたが、1951年長崎市が出島の復元整備を開始し、現在までに16棟の建物や景観が当時の姿を取り戻しました。 -
日本二十六聖人記念館
1597年2月5日、豊臣秀吉のキリシタン禁教令により日本で初めてキリシタン26人が処刑されました。殉教の地である「西坂の丘」に1962年、日本二十六聖人列聖100年を記念して建立された資料館で、世界的に知られるカトリック教徒の公式巡礼地です。
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長崎歴史文化博物館
長崎奉行所という歴史的な建物を、江戸時代に置かれていた長崎諏訪の杜に復元し展示している、ユニークな体験型博物館。
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