日本初っていう言葉はお好き?ルーツを知るともっと楽しい旅に!
「長崎にある日本初」まとめ
あれもしたい、これもしたい。旅の準備をしている時、旅先に思いを馳せるのって楽しいものです。歴史的な名所を周遊する旅、旬な料理に舌鼓を打つグルメ旅、ビュースポットを巡る旅など、旅の楽しみ方はさまざまにあるけれど、ここでは「長崎の日本初と出会う旅」をご提案! 鎖国時代、西洋との貿易が行われていた長崎には、国外から日本に初めてもたらされたものが多く、市内のそこかしこに「◯◯発祥の地」という碑が立っています。そう、長崎市内には多くの日本初があるんです。コーヒーやミルクセーキ、チョコレートといった食べものから、ビリヤードやボーリング、コンクリート住宅まで、さまざまなものが上陸した”伝来の地”長崎で、さまざまな日本初と出会ってみてください。ルーツを知って思いに馳せる旅はいかがでしょう?
「長崎にある日本初まとめ」、いざスタート!
”リトルオランダ”出島で始まった「日本初の◯◯」
長崎には日本初が多い。そう評されることの多い長崎ですが、なぜ長崎には日本初が多いのか?時計の針をさかのぼると、そのわけにたどり着けます。皆さんご存じのように、長崎は近世(江戸幕府の開府〜明治維新による東京遷都)を通じて、鎖国中(218年間!)西洋との唯一の窓口として開かれ、豊かで活気あふれる町として栄えてきた歴史があります。海に突き出すように造られた扇型の人口島「出島」はまさに”リトルオランダ”であり、出島に住むオランダ人たちの暮らしそのものが「◯◯発祥の地」「日本初の◯◯」へと繋がっていきました。
・パンにバターを塗り、フォークとナイフで食事し、ギターやハープに興じながらコーヒーや葡萄酒を嗜んでいた。
・出島に見学にきた日本人にオランダ料理を振る舞ったあと、玉突き遊び(ビリヤード)を見せるのが通例だった。
・出島の外に自由に外出できなかったので気晴らしにバドミントンで遊んでいた。
・オランダからの船便の来航が途絶えることが多く、出島内でビールを醸造していた。
・ドイツ人医師・シーボルトがピアノを持ち込み、帰国する際、親交のあった豪商にピアノを贈った。
当時の暮らしぶりをうかがい知るエピソードは枚挙にいとまがなく、文献や絵図にもその様子が記録されています。ビリヤード、バドミントン、ピアノ、かるた、コーヒー、ビール、チョコレート、トマト、キャベツ、パセリ、ペンキ、レンガ……これらの娯楽や食材、飲み物などが日本と西洋を唯一結んだ出島から全国へ伝わり、広がっていったと言われています。
開国後、多くの外国人が新天地長崎へ
時は進み、1859年。日米修好通商条約により開国すると、長崎に多くの外国人がやってきます。その中のひとりに、スコットランドから日本に移り、日本茶や武器を始めとした貿易で財を成したスコットランドの商人、トーマス・B・グラバーがいました。長崎から始まった日本近代化の立役者のひとりで、長崎を代表する観光スポット「グラバー園」の中にある「旧グラバー住宅」に住んでいました。
1863年に建築された旧グラバー住宅は現存する日本最古の木造洋風建築とされ、ほかにも彼はいくつかの日本初を持ち込んだと言われています。日本で鉄道が開通する7年前、1865年にはグラバー園近くにある大浦海岸で小型蒸気機関車「アイアン・デューク号」を試走。長崎が「鉄道発祥の地」とされるわけはこんな話がもとになっています。
ちなみにグラバー園内にある「自由亭喫茶室」は、明治期に日本人シェフ草野丈吉によって開業された西洋レストラン「自由亭」跡に設けられたカフェで、明治レトロを感じる佇まいから客足の途絶えない店として人気です。薫り高く濃厚なダッチコーヒーを味わいながら、明治の世を想いながら休憩してみてください。
グラバー園へのアクセスは土産店が並ぶ、上り坂から大浦天主堂経由で訪れるのが一般的ですが、無料で利用できる斜行エレベーター「グラバースカイロード」に乗れば、グラバー園を擁する南山手の斜面地を堪能でき、丸窓からは長崎港と稲佐山をセットで眺めることができます。正式名称は長崎市道相生町上田町2号線、じつはこちらも日本初の公道として造られたエレベーターだったりします。観光客にとって珍しい斜行エレベーターでも、地元民にとっては日常の足。朝一番に乗ると、通学中の学生やビジネスマンの姿が多くなります。
まちを歩けば日本初と出会える。長崎市内にはほかにもたくさん、日本初があります。
幕末の志士・坂本龍馬の長崎初の拠点として知られる「亀山社中」は幕末の頃(1865年)、徳川幕府の倒幕を目的とし、藩という枠組みを越えて商業活動を行う、貿易会社と政治組織を兼ねた「日本初の商社」として誕生しました。
また、長崎一の繁華街・浜町アーケードの西側入口に位置し、浜町と築町を結ぶ中島川に架かる鉄橋(正式名は銕橋=くろがねばし)は坂本龍馬が活躍していた時代、1869年に建設された日本初の鉄橋で、現在は長崎ランタンフェスティバル期間中に巨大なオブジェやランタンが橋に飾られています。
じつは日本で最初の国際電信業務を開始したのも長崎です。鉄橋を造った2年後の1871年、ヨーロッパからシベリアを横断する電信線が完成したことを背景とし、デンマーク系の大北電信会社によって長崎~上海間、長崎〜ウラジオストック間をつなぐ海底ケーブルが敷設され, 国際通信が開始されました。「国際電信の発祥地」のモニュメントはANAクラウンプラザホテル長崎前にあり、長崎歴史文化博物館には電信技術の資料が展示されています。
坂本龍馬が結成した日本初のカンパニー「亀山社中」
中島川に架かる鉄橋(正式名は銕橋=くろがねばし)
国際電信の発祥地
長崎市内を歩いていると、ほかにも「日本最初の缶詰製造の地石碑」「日本のボーリング発祥の地碑」「近代活版印刷発祥之地」など、「◯◯発祥の地」を記した記念碑を散見することができます。旅の道中、偶然出会うこともあるかもしれません。わざわざモニュメントを見に行く時間はなかったとしても、長崎市には日本初が盛りだくさんと心得ておくのも一興です!
旅の楽しみ方は人それぞれ。あなたは日本初っていう言葉はお好きですか?
長崎市民のとっておきVOICE
市民の声に耳を傾けてみたら、知らない長崎がこんなにあった。今年、あなたの知らない長崎へ行こう。
野田 信治
1639年(寛永16年)頃、鎖国のなか唯一認められていた長崎出島に、オランダ人によって初めて珈琲がもたらされました。きっとオランダ人と接触できた役人や商人、蘭通詞(通訳)などの限られた日本人が珈琲を味わっていたのでしょうね・・・。それから200年後の1826年、阿蘭陀商館医シーボルトが広めたと言われています。日記の中に「日本人は2世紀以上も前からコーヒーを知っているのに、今でも温かい飲み物(お茶)だけを飲み、珈琲が流行しなかったのは実に不思議な事である。」と書いてあります。今では全国で美味しいコーヒーが飲める時代です。珈琲伝来地長崎出島で素晴らしいコーヒータイムを味わってみませんか?
(株)Attic coffee and dining 代表取締役 社長
野田 信治
高浪 高彰
「長崎海軍伝習所」は日本で最初の海軍学校です。江戸町の旧県庁が建っていたエリアにあった「長崎奉行所西役所」内に併設されていました。私が営んでいる「長崎雑貨たてまつる」は、そのすぐ横にあった「船番長屋(奉行所の船の修理工場)」だった場所にあります。伝習生にはあの勝海舟もいました。伝習所は2年制でしたが勝は4年も在籍。数学が苦手で2回留年したのだとか。榎本武揚は、勝より遅く入学しましたが先に卒業したそうです。伝習生の卒業試験は日本人クルーだけでのアメリカ航海でしたが、勝は艦長という立場でありながら数々のトラブルを巻き起こします(笑)。ご興味のある方は藤井哲博著『長崎海軍伝習所』をご一読ください。
長崎雑貨たてまつる 店主
高浪 高彰
松尾 久史
この夏休みはお孫さんを連れた三世代のご家族連れでボウリングを楽しむ姿も多く見られました。一方、競技スポーツとしてのボウリングも長崎では盛り上がっていて、プロとアマどちらでも長崎出身の選手が好成績を上げています。気の合う仲間や職場でのレクリエーションとして楽しむもよし、競技スポーツとして真剣に取り組むもよし、または健康づくり・仲間づくりができる生涯スポーツとしても、今、注目されているボウリングです。
かく言う私は、生まれた病院のあった場所が、日本で最初のボウリング場があったといわれるところと一致していたことで、勝手に縁を感じています。皆さんも、ボウリング場発祥の地で、いろんな楽しみ方をしてみませんか?
長崎ラッキーボウル支配人
松尾 久史