第1章 出島に咲いた愛の花
遠い異国の地へとやってきたシーボルトは、運命的に美しい⽇本⼈⼥性と結ばれ、かわいらしい娘を授かる。重⼤な国命を背負ったシーボルトを癒したのは、いつも愛する家族だった。
◆幸せを築く シーボルト・ファミリー
【国際⽂化サロンの遊⼥たち】
鎖国時代、出島は⼥⼈禁制でしたが、例外的に花街丸⼭の遊⼥の出⼊りだけは許可されていました。出島⼊りする“阿蘭陀⾏き”の遊⼥の制度は、1645 年頃から始まったとされています。出島の様⼦をうつした絵画にも描かれているように、芸事を⾝につけた遊⼥たちは⻄洋⼈と時を過ごすことで、⽇本⽂化を⻄洋に紹介し、⻄洋⽂化を⽇本へ伝播させる国際窓⼝にもなりました。遊⼥は⺟国を離れて暮らす⻄洋⼈にとって⼤きな⼼の⽀えとなり、出島の恋物語も数多く⽣まれることとなります。
【シーボルトの最愛の⼈ タキ】
1823 年8 ⽉に来⽇した27 歳のシーボルトは、ほどなく⻑崎奉⾏の計らいで、出島の外で⽇本⼈を診療する許可を得ました。その最中、シーボルトは患者の⼀⼈であった16 歳の⽇本⼈⼥性 タキに⼀⽬惚れしたと⾔われています。タキは花街丸⼭の引⽥屋に⼿数料を払って籍だけを置く“名付遊⼥”になることで出島に出⼊りすることが叶って、2⼈はめでたく結ばれました。このときのシーボルトの喜びは、ドイツの家族へ送った⼿紙にも表れています。
1823年11⽉15⽇付、シーボルトがドイツの⺟と叔⽗へ宛てた⼿紙
「愛すべき16歳の⽇本の⼄⼥の腕に抱かれて。というのも選択よろしきを得て彼⼥を得るという幸運に恵まれた私は、
今やひとりのアジア美⼈を所有しているのです。彼⼥をヨーロッパ美⼈と取り替える気などとても起きそうにありません。」
【シーボルトの娘 イネの誕⽣】
タキが出島に出⼊りするようになって4年後の1827年5⽉6⽇、タキの⻑崎銅座の実家で、鎖国時代の当時では⾮常に珍しい⻄洋⼈と⽇本⼈のハーフである、シーボルトと同じ⻘いまなざしの娘 イネが⽣まれました。初めての我が⼦に感激したシーボルトはすぐに⼆⼈を呼び寄せて、乳⺟と従者を雇い、家族3⼈の幸せな出島⽣活が始まりました。
◆シーボルトの家族をえがく
【仲睦まじい ファミリーフォト】
シーボルトお抱え絵師 川原慶賀は、出島で暮らすシーボルトの家族を描いた⼀枚の絵画を残しています。出島の屋上から、⼊港するオランダ船を望遠鏡で⾒ているのが商館⻑。シーボルトはいつも緑の帽⼦を被っていたと⾔われているので、⽩い服を着た⼈物がシーボルト。そして、その傍でシーボルトの妻 タキが、娘 イネを抱いています。シーボルトの個⼈的な使⽤⼈で⼦守役のオルソンは夫⼈とその⼦供に寄り添っています。階段を駆け上がってきているのは、イネの乳⺟。イネは家族に囲まれながら、出島を我が家のようにして健やかに育ちました。
【愛妻に捧げる 美しい⾬の花】
シーボルト『⽇本』には、「OTAKSA(おたくさ)」と記された⼀⼈の⼥性像が描かれています。これはシーボルトの妻 タキのことで、代表作の中に愛する⼈の姿をうつし⼊れています。また、シーボルト『⽇本植物誌』においては、⽇本固有種の可憐で美しい⾬の花 アジサイに、Hydrangea otaksa(ハイドレンジア オタクサ)という学名をつけて、愛妻 タキに捧げたことも有名。⽇本から遠く離れ、⽣涯をかけて完成させた⼤作の中にもシーボルトとタキの恋物語は息づいています。
COLUMN
⻄洋婦⼈をあらわす 古賀⼈形
⻑崎の伝統⼯芸品/⺠藝品 古賀⼈形は、京都の伏⾒⼈形、仙台の堤⼈形と並ぶ⽇本三⼤⼟⼈形の⼀つ。
異国情緒豊かな歴史⽂化を反映し、中国⼈や⻄洋⼈などをテーマに、素朴で温かみのある姿に原⾊で⼤胆にカラーリングされた独特な⼈形たち。古賀⼈形の代表作“⻄洋婦⼈”のモデルといえば、ブロンホフ夫⼈です。オランダ商館員たちは出島に赴任する際、家族と共に赴任することが禁⽌されていましたが、例外的に短期滞在できた⼈物が商館⻑ブロンホフ(出島在任:1817〜1823年)の夫⼈で、⽇本にやってきた初の⻄洋⼈⼥性 ティツィア・ベルフスマ。⻄洋⼈⼀家が揃って出島で過ごしていた優美な姿は⼈衆の注⽬を集め、⽇本⼈絵師によって家族の肖像画も描かれています。