第1章 江⼾参府プロローグ
⽇本⼤冒険が始まる、その前に。シーボルトの江⼾参府を概観するプロローグへ。
◆⽇蘭貿易のお礼参り 江⼾参府とは?
【江⼾参府とは】
オランダは、鎖国にある⽇本において特別に貿易を認められている特例を感謝し、1633年以降、年に1回、出島のオランダ商館⻑⼀⾏が江⼾に参上し、将軍に謁⾒し御礼を述べて、オランダ産の⽑織物などを献上する江⼾参府を制度化しました。その後、1790年からは貿易額減少に伴って4年に1回の参府となっており、シーボルトはこの江⼾参府の時期を⾒計らって来⽇しています。
【時期】
シーボルトが江⼾へ向かって出発した1826年2⽉15⽇は、旧暦でいえば1⽉9⽇。⻑崎の市⺠にとって、オランダ商館⻑⼀⾏の江⼾参府は正⽉の⾏事の⼀つでした。⻑崎帰着までの所要⽇数は通常90⽇間程度でしたが、シーボルトは⽇本調査のために主要地(江⼾・京都・⼤阪・下関)に⻑期滞在したいという希望があり、ついには143 ⽇間をかけた歴代最⻑の江⼾参府を達成しました。ただし、江⼾では更なる⻑期滞在をできるよう働きかけていましたが、失敗に終わっています。
【⾏程】
⾏程は、⻑崎〜佐賀〜福岡〜下関までを陸路で移動。下関からは海上交通に切り替え、瀬⼾内海を抜けて兵庫に上陸。その後は陸路で、兵庫〜⼤阪〜京都を経て東海道を通って江⼾に向かいます。
復路では、往路で昼⾷をとった宿に宿泊することが定められていたので、シーボルトは収集したコレクションを宿に⼀旦留め置き、スムーズに持ち帰ることができました。
【⼈員構成】
江⼾参府⼀⾏は、オランダ⼈と⽇本⼈で構成されます。オランダ⼈側は、江⼾参府の主役 商館⻑と、書記・医師1⼈ずつが随⾏するのが常例。⽇本⼈側は、奉⾏所の役⼈から任命された正・副の検使をはじめ、通訳や会計の任にあたる江⼾番⼤・⼩通詞、その他の下役などが付き添って、総勢59⼈と規定されていました。シーボルト⼀⾏の場合は、表向きは、ほぼ規定通りの60⼈だったとされていますが、シーボルトの協⼒者30⼈が⼀⾏に巧みに加えられ、シーボルトの⽇本調査を⼤いに助けたと⾔われています。
◆江⼾参府の便利アイテム
【シーボルトの“宙に浮かんだ研究室”】
シーボルトたちオランダ⼈の乗る駕籠(かご)には、⼤名の紋章の代わりにVNOC(連合オランダ東インド会社の略称)の⽂字がつけられ、その横には⽇本語で「表敬訪問するオランダ⼈」と明記されました。シーボルトは⾃分の駕籠を“宙に浮かんだ研究室”と称して、博物学コレクションのために必要な資料や器具を持ち込んで、移動の間も⽇本研究に没頭しました。特に京都〜江⼾間の熟練した担ぎ⼿の駕籠は揺れが少なく、本を読むことも字を書くことも、眠ることもできたと⾔います。
【江⼾時代版 旅のガイドブック】
江⼾時代、参勤交代やお伊勢参りなどの巡礼旅⾏の普及によって、⽇本の旅⾏制度は特別に発達していたことをシーボルトは指摘しています。街道沿いには宿や茶屋も充実し、旅のガイドブックもありました。旅⾏⽤地図や道程表、旅に必要な物品リスト、⾺や⼈夫の料⾦、通⾏⼿形の形式、有名な⼭や巡礼地の名称、気象学の原則、潮⾒表、年表などが記され、紙製の⽇時計もついた⽇本旅⾏の必需品となっていました。このガイドブックは、シーボルト・コレクションにも収蔵されています。
【親愛のしるし ヨーロッパの⼿⼟産】
シーボルトは⽇本⼈が⼿⼟産によって親交を深めるという習慣に着⽬し、江⼾参府に向けて、⼩型のフォルテピアノなどの贅沢品、外国書籍、電気治療機、顕微鏡、外科⼿術⽤具、携帯⽤薬品といった最新器具類を数多く取り揃えて来⽇しました。彼は出島にいるときから、どこで、誰に、何を渡すかを決めていたという⽤意周到ぶりで、この魅⼒的なプレゼントによって、主要都市の多くの⽇本⼈たちと円滑にコネクションを作り上げ、様々なコレクションを⼿に⼊れることができました。
◆シーボルト⽇本調査団の主要メンバー
【シーボルトの右腕|書記 ビュルガー】
薬剤師ビュルガーは、シーボルトの助⼿として来⽇し、江⼾参府にも書記として参加。ビュルガーはシーボルトの右腕として活躍し、植物、動物、地質学等の蒐集研究に⼤いに役⽴ちました。
【シーボルトのカメラ|画家 川原慶賀】
江⼾参府に参加できるオランダ⼈は3⼈までという制約により、画家 デ・フィレニューフェの同⾏が叶わなかったので、画家 川原慶賀(登与助)を同⾏させました。川原慶賀は、江⼾参府中における主要地の⾵景や事物を記録する“シーボルトのカメラ”として活躍し、江⼾参府の多くのスケッチが著作『⽇本』の図版の下絵として利⽤されています。
シーボルト『⽇本』本⽂より:
「画家としては登与助が私に随⾏した。彼は⻑崎出⾝の優れた芸術家で、とくに植物の写⽣に得意な腕をもち、⼈物画や⾵景画にもすでにヨーロッパの⼿法をとり⼊れはじめていた。彼が描いた数百枚の絵は、私の著作の中で彼の功績が真実であることを証明している。」
【医療・植物学サポーター|弟⼦ ⾼良斎】
シーボルトの弟⼦で、とりわけ信頼を得ていた医師 ⾼良斎もメンバーに参加しました。オランダ語が堪能で、植物学にも詳しかったので、⽇本各地で⾏う医療⾏為や植物学コレクションのサポートを務めました。
【標本サポーター|召使 弁之助、熊吉】
作業担当のメンバーとして出島で雇われている弁之助、熊吉を同⾏させて、採取した植物を乾燥標本にする作業、捕らえた動物を剥製にする作業を任せました。
【“裏”のシーボルト調査団】
シーボルトは、湊⻑安や⾼野⻑英といった鳴滝塾の弟⼦などを頼って、⾃らが⽴ち寄ることができないエリアを調査するチームを結成しました。シーボルトは情報交換の機会を旅先で何度も設けて、彼らが集めた情報等を共有するとともに、コレクションを出島に送る⼿配も連携しました。その上、シーボルトは様々な論⽂を弟⼦たちに提出させ、後に著作『⽇本』の制作に役⽴てています。また現地で会った者とも親交を深めて、⽇本調査に協⼒してもらいました。代表的な⼈物が北⽅探検家 最上徳内で、著作『⽇本』にも掲載されているアイヌやカラフトに関する資料提供を受けています。
COLUMN
⻑崎街道シュガーロード|Ⅰ. スイーツの原⽯“⽩い⻩⾦”出島上陸
江⼾時代、砂糖は貨幣に匹敵する価値があるとして“⽩い⻩⾦”と呼ばれていました。⻑崎の出島は、国内唯⼀の国際貿易港として⼤量の砂糖を輸⼊しており、⼀番の輸⼊品 砂糖が⼈衆の注⽬を集める様⼦も1枚の絵画として残されています。またシーボルトは帰国する際、妻 お滝さんへの⽣活費として⼤量の砂糖を贈ったという逸話もあります。江⼾参府でも利⽤された⻑崎街道は、出島から⼤量の砂糖が⽇本全国に流通していく始まりのルートで、別名“シュガーロード”とも呼ばれていました。現在の出島では砂糖専⽤蔵(⼀番蔵など)が復元されており、当時のオランダ貿易の様⼦を垣間⾒ることができます。