第2章 シーボルトの”カメラ” 天才絵師 川原慶賀
科学的でありながら、⼀般⼈が⾒ても楽しめる豪華な彩⾊図譜『⽇本植物誌』。その下絵のほとんどを描いたのは、⻄洋のサイエンスと⽇本のアートを融合させた天才絵師 川原慶賀だった。
◆サイエンス×アートの眼で、植物をうつす
【出島専属のアーティスト】
川原慶賀は、1786年頃、⻑崎に⽣まれた⽇本⼈絵師。⻑崎画壇の重鎮 ⽯崎融思の弟⼦として、⻄洋絵画と⽇本絵画の技法を合体させるなどの最新教育を受けた後、1811年頃、出島に⾃由に出⼊りできる「出島出⼊絵師」の特権階級を斡旋されます。以降、商館⻑、商館員などの求めに応じて、カメラのごとく⽇本の⽂物をうつしとって記録する出島専属のアーティストとして活躍し、特にシーボルトのお抱え絵師として、⽇本博物学研究のための数多くの絵画を描くこととなります。
【サイエンスとアートを融合する】
シーボルトは、川原慶賀の写実的で正確な絵画を⾼く評価していましたが、⻄洋植物画の科学的原則に沿った記録が必要であったため、1825 年、植物画家デ・フィレニューフェを来⽇させました。慶賀は、この植物画家から⻄洋植物画の原則を指導されたことで、シーボルトの満⾜のいく植物学的⾒地からも有⽤な図譜を数多く⽣み出します、そして、慶賀のアートは、次第に⽇本画本来の情趣と⻄洋の科学的な画法を融合させた独⾃の境地へと辿り着きます。
【そして、ボタニカル・アートの名作へ】
川原慶賀がうつしとった、おびただしい数の⽇本植物の図譜コレクションは、名作『⽇本植物誌』の図版製作の基礎となりました。シーボルトは、この原画を元に、植物図版の製作に傑出したドイツやオランダの画⼯に版下画を描かせて、出版を⾏います。この版下にする過程では、枝ぶりや葉や花の配置などは⻄洋の植物画の知識に応じて多少の改変が⾏われましたが、ヤマブキやアケビは川原慶賀の構図や雰囲気が保たれた代表例と⾔えます。
COLUMN
⻑崎市最南端に残る慶賀の作|観⾳寺の天井画
川原慶賀は、シーボルトが国外追放となる「シーボルト事件」に続いて、⻑崎港内の警備船の家紋を描いたことにより追放処分を受けて、その後⾏⽅知れずとなりますが、⼀つの⾜跡が、⻑崎市最南端・野⺟崎の観⾳寺に残されています。本堂の天井画150 枚のうち、フヨウ、ボタン、ユリ、ムサシアブミ、ノウゼンカズラの5枚に慶賀の落款が施されており、天才絵師 慶賀の作として貴重な⽂化財となっています。