第3章 西洋医学・日本博物学の交流拠点「鳴滝塾」
東洋の神秘の国 日本を解き明かすシーボルトという大樹は、西洋の知識の雫をこぼしながら、日本の大地によく馴染み、いきいきとその新緑を広げていく。
◆西洋医学の種をまく
【更なる自由を得た、シーボルトの別荘】
1824 年、シーボルトは、長崎郊外の鳴滝にあったオランダ通詞 山作三郎所有の別荘を購入し、医学私塾・診療所 鳴滝塾を創設しました。木造2 階建て、庭には日本各地で採取した植物が栽培されました。シーボルトは出島から塾まで足繁く通い、西洋医学や自然科学など、幅広い分野の学問を日本人に教授しました。
【西洋医学を極める弟子たち】
鳴滝塾では、一番弟子の蘭学者 高野長英、日本初の理学博士 伊藤圭介、初の幕府蘭方医官の最高位となる伊東玄朴、後にシーボルトの娘イネに蘭学を教授する二宮敬作、日本眼科学の父 高良斎など、日本全国から150 名を超える秀才が集いました。ここでは、ただ書物から学ぶのではなく、シーボルトの診断治療を目の当たりにする実践的なものでした。シーボルトの弟子たちは、鳴滝塾で西洋医学の知識技術を存分に吸収し、次第に日本の医学界をリードするようになります。
【シーボルト・ミュージアム】
現在、鳴滝塾の跡地は、「シーボルト宅跡」の名称で国指定史跡に登録された庭園となっており、庭園内には、シーボルトが最も愛した「紫陽花(おたくさ)」をはじめ、日本植物誌に記される植物が植栽されています。また隣接地には、シーボルトの生涯や偉業を紹介するミュージアム「シーボルト記念館」が併設されています。館内では、《シーボルト妻子像螺鈿合子》、《眼球模型》、《シーボルト書状》などの31 点の国指定重要文化財が含まれる多くの貴重資料を所蔵しています。
COLUMN
日本の近代西洋医学教育の父 ポンペ
シーボルトの時代以降、日本の医学発展に多大な貢献をしたのが、ポンペ・ファン・メーデルフォルト(1829~1908)。1861 年、ポンペは、長崎港を見下ろす小島の丘に、124 床のベッドを備えた日本初の西洋式病院「小島養生所」を誕生させます。ポンペは、この小島養生所で、多くの日本人医学生に対して系統的な臨床医療を講義しました。また、貧乏人は無償で治療し、階級・人種などの区別を一切せず、“医は仁術である”と語りました。現在、その理念を表す言葉は、長崎大学医学部の校是となっています。
「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」