第2章 出島から始まる”日本遊学”
舞台は、東洋の神秘の国 日本の長崎・出島へ。
日本に魅せられたシーボルトの知的好奇心の枝葉は、次第に出島の外へとしなやかに伸びてゆく。
◆出島にて、大いなる決意を胸に
【日本と西洋を結ぶ唯一の国際交流拠点】
出島は、1636 年、西洋との貿易窓口として築造された人工島。鎖国で一時無人となった出島でしたが、島原・天草一揆の際、幕府に加勢したオランダは、布教よりも貿易優先という信用を得たことで、1641 年、出島オランダ商館が誕生します。それから約200 年間、出島は、日本と西洋を結ぶ唯一の国際交流拠点として日本の近代化に貢献します。南蛮船でやってきたシーボルトが日本で最初に上陸したのが、この出島。彼の壮大な夢は、この小さな箱庭からスタートするのです。
【出島の三学者がつなぐバトン】
「出島の三学者」と讃えられるのが、出島オランダ商館医ケンペル、ツュンベリー、シーボルトです。彼らに共通するのは、商館員の健康を管理し、西洋の近代医学を日本に伝える一方、日本の博物学研究を遂行し、神秘の国 日本をヨーロッパへ紹介したこと。今も出島の片隅に残る碑は、シーボルトが偉大な先輩ケンペル、ツュンベリーを讃えて建立したもので、時代を超えてつないだバトンを、自らの代で大成させる決意の表れのようです。
◆西洋医学と博物調査のギブ&テイク
【出島の特例! シーボルトの外出許可】
商館医の仕事は、商館員の健康管理。出島のシーボルトの元には、最新料学を学ぼうとする医師などが足繁く訪れました。シーボルトは、天然痘の予防接種ワクチン、ベラドンナを用いた白内障手術などの先進医療を惜しげもなく披露し、次第に評判を博します。商館長の協力もあり、医学や諸科学に精通し、教授できる人材として長崎奉行へ紹介されたシーボルトは、ついに出島の外で一般人を診察し、薬草を採取することが許可されます。
【シーボルトの日本調査団】
シーボルトがまちへ出る許可が出た初めの頃は、長崎の蘭方医の邸宅で講義診療を行い、次第に多くの門弟が集まるようになります。シーボルトは、西洋医学を教える見返りとして、門弟を使って日本の様々な情報を手に入れました。植物の標本作成・論文執筆などに功労した者には、専門書や外科器具、頭微鏡、更に西洋医学修得の証明書なども贈る手の尽くしようで、門弟たちは協力を惜しみませんでした。シーボルトの本懐である日本研究の体制は、こうして着実に形成されました。
COLUMN
出島のごちそう
江戸時代、日本では肉食を忌避していましたが、出島オランダ商館に住む西洋人にとっては、牛肉は当たり前の食事。シーボルトお抱え絵師 川原慶賀が描いた絵図においても、出島の肉食文化が描かれており、当時の長崎人も興味津々でした。そんな長崎では、明治初期、早々に肉屋が開かれ、すき焼きも流行しました。この歴史にちなみ、現代の長崎では、ブランド和牛「出島ばらいろ」が生まれています。薔薇を連想させる鮮紅色を持ち、バラ肉が厚いことから名付けられ、赤肉と霜降りのバランスを追求した「出島ばらいろ」は、和牛日本一の賞にも輝いています。