第1章 シーボルトの数奇な運命
シーボルトの知的好奇心の種は、母国ドイツで芽吹き育まれ、
その人生を捧げることとなる東洋の神秘の国 日本へと運ばれていく・・・
◆ドイツ医学界のサラブレッド誕生
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)は、ドイツの地方都市ヴュルツブルクに生まれました。シーボルト家は、学才に秀でた人物を多数輩出する医学界の名門貴族です。名前の“フォン”とは、ドイツの貴族階級である証。シーボルトの父クリストフは、ヴュルツブルク大学教授で、ユーリウス病院の第一医師でした。しかし、シーボルトは2歳のときに不幸にも父を失い、母アポロニアのもと母子家庭で育てられます。
【植物学への目覚め】
1815年、ヴュルツブルク大学医学部に入学したシーボルトは、父の友人で、博物学に造詣が深いデリンガー教授の邸宅に住み込みました。そこでは、動植物の観察や解剖などについて直接教授に学び、教授宅に集っていた様々な分野の学者たちとの知的交流によって、あらゆる学問を学びます。特に、植物学の権威 エーゼンベック教授の知遇を得たことが、彼を植物学に目覚めさせるきっかけとなりました。後年の傑作「日本植物誌」のルーツは、この出会いにあったかもしれません。
◆世界へ飛び出す勇気をくれたのは・・・
【貴族のプライドと、人一倍の好奇心】
1820 年、大学を卒業したシーボルトは、自ら開業した医院を、2 年も経たずに廃業。シーボルトは、貴族のプライドにより、町の開業医として一生を終える人生を選ばなかったのです。その後、シーボルトは、叔父の旧友により、オランダ領東インド陸軍外科少佐という高待遇の役職を斡旋されます。シーボルトは、バタビア(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)への海外派遣を前のめりで承諾します。この情熱を、恩師に報告した手紙が残っています。
「成人の域に成長した博物学研究の特別な愛好心、この偏愛こそ、他の大陸に遠征させる決心をさせたものでした」
【神風が吹く!日本博物学研究の切符】
1823 年、バタビアへ到着したシーボルトは、医師としての技術、博物学に対する深い造詣を高く評価され、オランダ領東インド政庁総督カペレンの目に留まることとなります。そのときオランダ領東インド政庁は、西洋医学の知識・技術を提供し、日本研究を進める日蘭貿易政策を検討していました。この条件にぴったりと合ったのが、シーボルト。27 歳となった彼は、数奇な運命に導かれ、出島オランダ商館付医師・自然調査官として、日本へ向かう特別な切符を手に入れたのです。
COLUMN
決闘者 シーボルト
大学在学中のシーボルトは、貴族階級という強い誇りがありました。当時決闘は常識だったとはいえ、33 回もの決闘のほとんどに勝利するほどの絶対的強者。江戸参府のときも、学術調査に非協力的だった商館長ステュルレルにも、決闘を申し入れたと言われています。理知的イメージからは想像もつかない、シーボルトの豪快なバイタリティは、日本への大冒険にも一役買ったことでしょう。
◆東洋の神秘の国 日本目指して
【感極まる、待望の長崎入港】
1823 年、バタビア出港から45 日間の大航海、海上での博物学研究に勤しみ、数日間の猛烈な嵐を抜けて、とうとう長崎に入港したシーボルト。この震えるような感動は、著作『日本』にて、いきいきと語られています。
「長崎の町が近づくにしたがい、湾はいよいよ活気を帯びる。船の左右にはいろいろな景色が見える。風はなぎ、空には一片の雲もなく、おかげで、こよなく美しい光り輝く風光を眺めることができた。
気持ちのよい住宅の建ち並んだ、たとえようもなくすばらしい岸辺が一行を歓迎してくれる。
なんと豊かな丘か、なんと崇高な神社の森か。生き生きした緑したたる山の頂、それはまことに絵のように美しい」
【シーボルトは、山オランダ人??】
入国審査のとき、一つの緊張が走りました。当時、日本はオランダ人以外の西洋人の入国を禁じていましたが、シーボルトは、オランダ人になりすまして入国します。シーボルトの不自然なオランダ語は、山オランダ人の訛りだと誤魔化しました。(実は、オランダは山のない平地国家!)こうして難を逃れた、27 歳の若きシーボルトは、1823 年8 月、長崎出島に降り立ちました。
COLUMN
オランダ王妃 アナ・パウローナを讃えて
シーボルトが名付けたキリの学名Paulowniaは、『日本植物誌』を献呈したオランダ国王ウィレム二世の王妃の名前に因んでいます。シーボルトは、日本の太閤 豊臣秀吉の家紋(桐紋)に用いられるほどの高貴な植物ということを十分に理解し、キリの学名を王室に捧げています。現在の出島では、毎年春に、オランダ国王の誕生日を祝うイベント「オラニエ・フェスティバル」が開催されており、日本とオランダをつなぐ深い友好関係が続いています。