長崎市の特徴(歴史)-1

長崎市の特徴(歴史) 長崎市の特徴(歴史)

遣唐使の派遣拠点となるなど、古くから海外との交流があった長崎は、日本の端にありながら、その「窓」として諸外国から熱い注目を浴びていました。この地を治めた大名・大村純忠は、大きな船が係留するのに適した場所だった長崎の港を開港。1571年にポルトガル船が初めて入港し、日本の歴史の大きな舞台として回り始めます。日本の「窓」であったゆえに背負わざるを得なかった長崎の宿命とは? 役割とは? 長崎の歴史を紐解いていきます。

ポルトガル船初入港の年にザビエルも来崎

キリシタンの町へ
平戸にポルトガル船が初めて入港したのは、1550年のことでした。イエズス会宣教師、聖フランシスコ・ザビエルは、その前年に鹿児島に上陸して布教を行っていましたが、平戸にポルトガル船が入港したこと知り、拠点を平戸に移して布教活動を展開しました。ここから長崎におけるキリスト教の歴史がスタートしたのです。
豊臣秀吉は、キリスト教の広まりに懸念を持ちながらも、ポルトガルとの貿易による利益を優先しました。これによって、現在の長崎市の中心部は栄えていくと同時に、神学校、教会堂が立ち並び、ヨーロッパ文化が華咲いたキリシタンの町となっていきました。

欧州が布教によって日本を支配

恐れた豊臣秀吉は禁教令を
ポルトガルとの貿易を推進したいがゆえに、キリスト教に対して好意的であったとされる豊臣秀吉。しかし、封建社会の中で、神の前での平等を理念とするキリスト教が広まることは、秀吉が図る天下統一の妨げとなります。1587(天正15)年、秀吉は「伴天連追放令」を出しました。豊臣政権からの圧力がありながらも信仰を続けるキリシタンたち。しかし、布教によってヨーロッパが日本を侵略すると考えた秀吉は、1597(慶長1)年、フランシスコ会の宣教師・イエズス会修道士ら26人を長崎の西坂で処刑しました。
■日本二十六聖人殉教地(西坂公園)
(所在地)長崎県長崎市西坂町7-8

COLUMN

東の小ローマ 45年間の光芒

■「東の小ローマ」と呼ばれた当時の長崎を今に伝える
秀吉が死去、家康が幕藩体制を築くまでの間、長崎はキリシタンの街として発展しました。多くの教会や福祉施設、病院が建てられ、東の小ローマと呼ばれました。1614年、徳川幕府の禁教令で打ち壊され、幻となったこれらの風景。2002年に発掘されたサント・ドミンゴ教会跡の遺構や遺物は、約400年前の長崎にキリシタンの街が確かに存在したことを物語っています。

サント・ドミンゴ教会跡資料館
(所在地)長崎市勝山町30-1桜町小学校内

東の小ローマ 45年間の光芒-1

江戸時代初期の貴重な教会遺跡

徳川時代に入りさらに強まる弾圧

島原の乱が起こり鎖国へ

徳川時代に入った1605(慶長10)年、キリシタン大名の大村純忠の子・喜前はキリスト教を放棄し、宣教師を領内から追放。幕府はキリシタン弾圧を強め、徳川幕府が禁教令を発令し、宣教師やキリシタンらは長崎港から国外追放を受け、教会堂は破壊されました。長崎に残ったり、再潜入した宣教師や信徒たちに対しても本格的な迫害がおこなわれました。

1637年から1638年にかけて起きた悲劇が「島原の乱」です。島原・天草の領民3万7千人が、島原半島の原城に立てこもり、3カ月間の籠城の末、幕府軍によって領民は皆殺しになりました。幕府はキリシタン一揆として徹底的に鎮圧しました。

江戸時代になぜ鎖国は必要だったのか

幕府はキリスト教が広まることを恐れたことが大きな理由であったことから、キリスト教の布教とは関係の薄い中国などとは鎖国後も貿易を続けたのです。また、貿易と布教を切り離していたオランダとも貿易は従来通りに続けることになります。日本鎖国政策の完成から、1859(安政4)年の長崎港開港までの218年、長崎は諸外国へ向けた日本唯一の「窓」として機能し続けたのです。

維新の風は長崎から吹いた!

「希望の地」と呼ばれた理由

日本の窓口であり、あらゆる文化に先駆けていた長崎。明治維新という日本の転換期においてもそうでした。「維新の風は長崎から吹いた」といわれる理由は、この地を訪れた坂本龍馬のエピソードからです。勝海舟のお供で初めて長崎を訪れた龍馬は、すでに開港していた長崎港に、たくさんの外国の帆船や蒸気船が停泊する風景を見て「長崎は、わしの希望じゃ」と言ったとされます。町では最新設備の整った病院や外国の軍艦、外国人居留地、ホテル、社交クラブ、レストランなどの西洋文明に出会い、大きな影響を受けました。これが維新回天に向け行動を起こす原動力となり、時代の変化に大きな影響を与えたのです。

龍馬は、日本で初めての会社「亀山社中」を長崎に設立。トーマス・ブレーク・グラバーなどの商人から武器弾薬などの物資を仕入れ、日本各地へ運ぶという取引を行うことで、当時まで対立していた薩摩藩と長州藩を結びつけたことが、後に薩長同盟成立に重要な役割を果たすことになりました。大政奉還のきっかけを作った後藤象二郎と龍馬の清風亭会談、長崎を出港した船中で龍馬が書いた船中八策、丸山遊郭で行われた数々の商談や密談など、幕末から明治維新への流れは長崎から始まったといっても過言ではありません。

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グラバー園

■日本の近代化に貢献したグラバー
開港と同時に上海から長崎にやってきたのがスコットランド出身の貿易商、トーマス・ブレーク・グラバー(1838-1911)。1859(安政6)年にグラバー商会を設立し貿易に従事しました。また、幕末の激動の時代の中、坂本龍馬を始めとする志士達を陰で支え伊藤博文らの支援など、若い人々への多大な援助を惜しみませんでした。明治維新の陰の立役者であったといえるでしょう。
現在の「グラバー園」は、国指定重要文化財の旧グラバー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅を核に、市内に点在していた6つの明治期の洋館を移築復元したものです。
【グラバー園】長崎県長崎市南山手町8-1

グラバー園-1
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